つれづれなる熊に

とあるババァの戯言集

朝散歩をしてわかったこと

 自宅を中心に、気の向くままに四方八方放射状に、散歩に出かけることをし始め、ほぼ全道を塗りつぶしたころ急にときめきがなくなってしまいました。

 まるで恋愛のように、相手の表面的なことを知ってしまったらトキメキが、安心とか愛情とかステージがちょっと変わったような、そんな感じ。

 もちろん興味ををもったことを、掘り下げることに夢中になることだってあります。でも、それもある程度掘り下げると、自分より先に掘り下げ続けてきた人の「答え」を目にすることで急に熱が冷めたり、現実の生活をないがしろにして迄自分が掘り下げることなのか?と損得を考え始めてしまうのです。

 見知らぬ街が、毎日歩くことで大体どこに何があるのかがわかってしまうことに、安心と引き換えに手放す「ときめき」。

 お気に入りのパン屋に向かい、自宅で食べることにも飽きてくると、このパンに対して飽きてきたのかという錯覚を起こす。

 そのことを確かめるために、道中の公園で風景と人間観察をしながら食することも楽しそうと思ったりもします。それでも、先が読めてしまうのです。たとえ週に1回だけここでお気に入りのパンを食したところで、公園に訪れる人はほぼ同じ、景色もほぼ一緒。季節ごとに変わるかもしれないけれど、きっと毎年同じことが繰り返されることときめきが消えていくのです。

 私は、好きだった物が「同じことの繰り返しによりときめきがなくなっていくこと」に耐えられないのだ、ということに気づきました。他人はそれを「飽きっぽい」というけれど、自分の中では、まったく興味がなくなったというわけではないのです。

 「掘り下げるほどではなくなった」という表現がしっくりくるのです。

 

 推しへの情熱も2年が限界。仕事への情熱もせいぜい2年が限界。なぜならば、2年続けることで、たいてい基礎的なことが見えてくるからです。その先を突き詰めるほどこの仕事は自分が好きか?と自分に問えば、大抵の仕事は掘り下げるほどのものではないという結果が出るのです。

 結局わたしは「一期一会」とか「わからないことを知る“ときめき”」を一生得続けていたい人間なんだと気づきました。

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 親愛なる寅さんが、放浪の旅をしたように。寅さんが旅先で出会ったマドンナと一生添い遂げることがなかったように、わたしは一生旅して生きていたいのだと思いました。

 知らない場所を探検する、知らない人がどんな人なのか、どんなことを思っているのかを知る。ワクワクをいつも持ち続けていたい。いつもの場所、いつもの人、気心知れた人間関係、そんなパターン化されてしまうことに耐えられないのです。

 

 世間一般で、それを「飽き性」というのかもしれないけれど…

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